2024年6月8日土曜日

GW04 (母校へ)





大学ではほとんど成果は出せなかった
遊びやバイトばかりだったな。

厚木JCTから小田原厚木有料道路に乗り換え南下する。
一人暮らしを始める時に、父のトヨタで両親と共にアパートに向かった道だ。後方には引越し屋のトラックが追走してた。

厚木~伊勢原~平塚の田園風景を走る。
卒業後も稀にドライブや出張でここを通過する事はあったが、大学の思い出が蘇るので好きじゃないというか何かムズ痒いというか胸が締め付けられる思いのするエリアだ。
今回は通過ではない、目的地が大学とその周辺の地だ。



平塚料金所を下りて金目川沿いを10分ほど走ると、当時のアパートに着く。
数えると26年ぶりだ。
写真右に見える物件である。2F建ての木造アパート。変わっていない。
左に見えるフェンスの内側は、私の通った大学のキャンパスだ。
大学に近いアパートにしたんだ。

あの春、一人暮らしの荷物なのでアパートへの搬入もすぐに終わった。
父と母は「じゃあ父さんたちは帰るぞ」と言ってすぐに帰った。息子が家を出て一人暮らしを始める日である、3人で夕飯でも食べに行くのが普通なのかもしれないが、私の性格がそういう事にしなかったんだと思う。そんな親不孝息子だ。



友達といえば付属高校からの友人やバイト仲間ばかりで、大学には仲良く共に過ごすような仲間はいなかった。私がひねくれてシャットアウトしていたのだ。

この町での生活は楽しかったんだ。
勉強が本業の学生らしくなかった。
それが恥ずかしい。

そのせいで避けていたこの町を訪問することにした。卒業以来26年ぶりだ。
過去の愚行にちゃんと向き合って、全ての関わった方に懺悔したいのかもしれない。



駅を見に行ってみよう。
小田急線東海大学前駅
変わってて昔と全然違う


目の前の万年山(居酒屋)が入ってるビルはまだあった。
万年山では直相がバイトしてたな。
ここで泥酔した私は、2コ上の石丸さんに会って「石丸さ~んヒック、、」と声かけたけど、
え?オレ違うよ と相手にされなくて、それでも「石丸さ~んヒック、、」と絡んだ。
あれ絶対石丸さんだったよな~。


駅前道路
右手には変わらず横浜銀行が見える。道幅は2倍ほどに広くなっている。
その先のダイエーは閉店してて、そのもっと先の炉端焼き「司」はまだやっていた。


駅からは大学までは15~20分歩く。登り坂が続くし結構大変。
学生街らしいアパートが並ぶ。
新しい物件も増えている。
道沿いにあったいくつかの古い定食屋はほとんど変わっていた。つまりあれだ、賃料のかからないスタイルじゃないと飲食店は難しいのか。




あの頃既にボロかったアパートは取り壊されたのだろう。
例えばこの通りにあった斉田が住んでいたアパートは無くなっていた。小樽の斉田。
古いタイプのアパートとか、懐かしい。

一歩一歩、当時を振り返りかつ反省しながら歩いた。
当時嫌いだったこの町を克服したい。

大学へ向かう道の最後の砦
大階段
広くなってるし、左にはエスカレーターが設けられている。
ノスタルジイな学生街に似合わない最新エスカレータだ。
市と大学が共同で設置したようだ。



着いた
1号館
入学直後の色々な手続きとかやった校舎
あと四年生になってまで一年生に混ざって受講した中国語の校舎。恥ずかしかった。
その位成績は悪かった。



大きなホールの2号館
新1年生が一堂に受ける講義とかここだった。
春の浮足立った大学生とか超イヤだった。自分も同じなのに。


私が一番利用した14号館
1コマ90分の授業は地獄だった
じゃあなんで大学行ったんだ



ゼミ室があった3号館
2階の渡り廊下で休憩時間を過ごした
魂の友達はいなかったけど、共に過ごしてくれた彼らには感謝してる。



坂を下って南側に行ってみる
GW中なので学生はほとんどいない
こんな日に大学にいるのはスポーツ部に注力する素晴らしい学生と、勉学や文化に勤しむ真っ直ぐな学生だろう。
本当に頭が下がる。


運動場も整備されてトラックが新しくなってた。
入学した春だったな、午後の体育の授業中、私はランチで食べたカツカレーをゲボった。
1000m記録会走って気持ち悪くなり、そのまま校庭の隅の樹木に隠れてゲボった。胃液を吐きながら涙目になってた。友達のいなかった私には誰もフォローに来なくて、心折れた私はそのまま授業をトンズラした。
そんな苦い思い出も回収してやるんだ。





ゴールデンウィーク、家族で出掛けない私は1人で帰省した、第二の故郷に。
そう、第二の故郷と言えるほどの思い出があるんだ
目を背けるのはやめよう。



続く





 

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